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東丹国

東丹国(とうたんこく, 西暦926年 - ?)は渤海を滅ぼした契丹がその故地に建てた衛星国。契丹の東の国の意である。

シラムレン川流域に勃興した契丹皇帝耶律阿保機は中原への侵略を繰り返す中で、背後の脅威を除去するため、マンチェリアに拠る渤海遠征を企てた。925年、自ら兵を率いて東征し、翌926年、渤海の都・忽汗城(渤海上京竜泉府、現・黒竜江省牡丹江市))を陥し、最後の渤海王を捕虜とした。阿保機は渤海の領土をそのまま統治すべく、忽汗城を天福城と改め、長子耶律倍(耶律突欲)を国王に任じて東丹国を立てた。倍は人皇王と呼ばれ、契丹重臣の耶律羽之らが東丹国次相として倍を補佐したが、各地に勃興した反乱勢力を平定しきれず、やむなく渤海王以下の捕囚を率いて凱旋したが、その途中、扶余城で太祖・耶律阿保機が急死。東丹王耶律倍は太祖の遺骸とともに本国へ引き上げた。そのため渤海人の反抗運動はますます盛んになった。一方、契丹皇帝位は927年に、武勇に優れ人望のあった次男・耶律堯骨(契丹太宗)が継承する。

長男で皇太子でありながら、契丹皇帝になれなかった倍はこれを恨み、耶律堯骨も兄が謀反を企てることを恐れ、兄弟の関係が緊張した。渤海の故地では渤海人の反乱が相次いだこともあり928年堯骨は遼東の東平郡(現・遼寧省遼陽)を契丹東京に昇格させ、東丹国の都を天福城から遼陽城に移すよう倍に命じた。倍は、臣従した渤海人らを連れて遼陽に移ったが、これは徙民政策によって渤海の中核を遼陽に移したことになった。渤海人はここを中心に独自の唐風文化を保つことになる。東丹国の手を放れた忽汗城(東丹の天福城、渤海の竜泉府)については、これまで叛乱勢力側の渤海人によって「後渤海」が建国され、旧渤海領の大半を再統合したとみる一部の見解が優勢であったが、史料では裏付けがとれない。再統合したとみるよりは、諸勢力が分居し、その中の1つが『宋史』にみえる定安国となったとみたほうが、史料的には無理がない。
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弟・堯骨による暗殺を恐れる倍は、医巫閭山に隠棲するが、930年密かに後唐の都・開封に亡命する。これにより東丹国は事実上滅亡したとみられていたが、1990年代に、各地で耶律羽之などの墓誌が発見され、東丹国の官が継承されていることが明らかになったことにより、渤海人を統制する目的で東丹国は存続していたとみられる。

936年、後晋に燕雲十六州を割譲させた契丹皇帝は引き続き存続していた東丹国の官制を縮小し、947年には国号を遼と改称する。これ以後も、遼に服属した渤海人は、引き続いて遼の東京・遼陽に集住していたが、史料にはみえなくなる。おそらく、遼が女真や高麗に攻め入ったころに、皇帝の権限強化をめざして東丹国の実権は皇帝などの中央権力に接収されたようである。

日本の史書は醍醐天皇の延長8年(929年)東丹国の使節が丹後国竹野浜(現・兵庫県豊岡市)に来着したことを伝える。この派遣は、東丹国が遼陽城に移った後の時期にあたることから、遷都後にも船を出航させる日本海沿岸に東丹国の影響が及んでいたことがわかる。使者はこれまで二度も渤海国使として来日したことのある斐「きゅう」であった。何故国名が変わったのかを問われた斐「きゅう」は渤海が契丹に征服されたことを知らせ、新王の非道ぶりを訴えた。これを聞きとがめた京都の朝廷は主君を変えたばかりか、新主の悪口を言うとは不届きであるとして入京させず、追い返している。この史実によれば、東丹国は渤海の後継者として日本との通交を維持する意向であったことがわかる。

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2009年05月31日 13:52に投稿されたエントリーのページです。

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